| ◇小川流煎茶 ◇現家元紹介 ◇煎茶の知識 ・小川流の手前 ◇煎茶の空間 |
小川流の流祖可進の著述『喫茶弁』には茶具に関しては、「ただその器は新古和漢を撰ばず活用なるを専要とす。」と一行が書かれているだけです。その茶器が、茶味を引き立てる上でいかに有効に働くかどうかという点が、良い茶器であるかどうかの判断になります。 ◇涼炉
◇お茶碗 わが国では、茶器といえばすぐに茶碗が連想されるほどに、その全体での占める位置は大きい。茶道としての煎茶に接した人達が、先ず最初に驚くのは、この茶碗の小ささと、その中に入っている茶量の少なさである。小さきものを良しとする点では、その当初から、わが国煎茶関係者の間で異論はほとんど無かったようである。それは、当時の煎茶が独自性を明らかにする上で意識的な選択であったといってよいかもしれない。その由来については、手近かな酒杯を利用したことに始まるとも、中国の「工夫茶」の影響ともいわれている。
◇茶瓶 一般に急須と呼んでいる物だが、煎茶器として扱う場合はすこし気取って「ちゃへい」と呼ぶ。もともと急須の名は横手の茶瓶の名称と考えるのが普通である。茶瓶は茶味に直接結びついているだけに、煎茶器の中でも最も大切な物の一つです。茶寮図賛の中で「沙丞相」と茶瓶を擬人化して呼んだ近世末の詩人大窪詩仏は、彼、つまり、茶瓶について 国の機密を主る謂う所の司命の官なり。事に緩急有り、候に遅速あり、一たび消息を失する時は、則ち百事敗る とその重大な任務について述べている。つまり、茶葉を入れ、湯を投じ、熟味を待ち、茶碗に注ぎ分けるという行程で、茶瓶は重要な働きをする。明代になってから、つまり煎茶の時代になって、初めてこの茶瓶が問題にされるようになるが、始めは錫製のものがよいとする意見と、陶磁器が良いとする意見とに分かれていたが、次第に朱泥・紫泥のものを良いとする者が多くなっていった。それは茶味を損なわないという点で、非常に秀でており、中でも宜興でつくられる朱泥の茶瓶(中国では一般に紫砂泥壺と呼んでいる)がその第一とされ珍重されるに至った。 上田秋成も清風瑣言の中で、「茶瓶は小器を要むべし。湯候いやすく、且つ客を迎えて、再三煎るの興あり。只前煎の宿気を去らざれば、茶の色香なし。新汲(汲みたて)の水に、克く克く滌いて再び烹るべし。常に一煎して宿気なからしむれば客来たりて、急卒の効あり。怠るべからず。」のように述べている。自らの体験に基づく意見であったろうが、本場中国でも抹茶から煎茶へと内容が変化したことにともない、茶瓶の事がいろいろ議論されるようになり、中国の茶書に影響されたものだったに違いない。(茶瓶の小型化しかしこの頃は横手又は、上手)そしてこのころから『京師の名工に模さしめ』とあるようにわが国でも清水六兵衛、青木木米、道八など煎茶器の製作が盛んになり出すのである。中国でもその好みは変わっていくが、「内外に釉の有る磁器」から砂泥のものへ、次第に宜興産の紫砂泥が大勢を占めるに至り、わが国にも定着していった。『飲茶漫話』のなかでも宜興の茶瓶は、『造形が伸び伸びしているだけでなく、色調も淳朴古雅という特色をもち、さらに、良い茶味を保つ効能があり、茶をいれても味が逃げず、茶を貯蔵してもその色が変わらず、夏の暑さにもむれることが無い。その上、長く使用する程、この光沢は潤いと趣を加え、茶味が芳醇馥郁とした香りをいっそう増してゆく。』と称されている。それは半陶半磁の精細な烙器で、表面に釉薬が施されていないからである。それぞれの特性を兼ね備えており、強度はかなり強いのだが、一定の通気穴があって、ちょうどよい通気をたもっているからである。
こうした宜興の茶瓶に対してわが国の近世・近代の煎茶愛好家がどれほど、熱い想いを寄せていたか、おそらく今日の人には想像を絶するものがあるに違いない。幕末明治と時代が下るにつれて異常なといってよいほどのたかまりを示すに至っている。富岡鉄斎が周高起の『宜興?壺譜』を訳したのは明治三年のことである。だがこの鉄荘茶譜などが引き金になり、宜興の名陶家のことが論議されるようになり、昭和十年代、掌中にはいる程の小さな朱泥の急須が、今日の数百万円から数千万円という価格で売買され、茶の湯の茶器が一国一城に価した過去の歴史を再現しょうとする骨董商の暗躍もあり、実体をはるかに越えた売買によって当時の煎茶界は、次第に識者の支持を失うという失態を招いていたのです。 煎茶器の基礎知識 小川後楽著より抜粋 |
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